隼と共に転んだ日

隼と共に転んだ日

それはほんの一瞬の出来事でした。

右手でスロットルを軽く回し、いつものように発進しようとした、その瞬間。傾斜のある場所で、隼の重心がわずかに崩れたのがわかりました。腰に走る痛みと同時に、バランスを取り戻す前に——あの音がしました。

「ガシャーン」。

あの音は、バイク乗りなら誰もが一度は耳にしたくない音です。立ちゴケ。人生で初めて、あの隼を自分の手で倒してしまいました。

右のカウルには深くえぐれたような傷。サイレンサーの表面にも、金属の地肌がのぞいています。まるで戦士が戦場で負った傷のように、痛々しい姿。けれど、それ以上に痛かったのは、自分の心の方でした。

不注意の代償と、焦りという敵

原因は、はっきりしています。

一週間前にぎっくり腰をやって、体が本調子ではなかったこと。そして、エンジンが温まる前に急いで動かそうとしたこと。

焦り。

それが一番の敵だったのかもしれません。

人は「急ぐ」と、余裕を失います。呼吸も浅くなり、判断も鈍ります。その瞬間、普段なら感じ取れる微妙な傾きや、バイクの重心の変化に気づけない。まるで、心のエンジンまで冷えたまま走ろうとしたかのようでした。

傷ついたのは、カウルだけじゃない

バイクの右側にできた傷を見るたび、胸の奥がチクリと痛みます。塗装が削れた部分に触れると、まるで自分の心まで削られたような気がします。

隼にまたがるとき、いつも感じていた「誇り」。あの完璧なフォルム、艶のあるカウル、流線のようなライン。それが傷ついた今、少しだけ違う表情を見せるようになりました。

けれど不思議なことに、そこには“美しさ”も感じるのです。完璧だったものが、ほんの少し欠けた瞬間に見える、人間らしさ。それは、まるで自分自身の弱さを隼が代わりに引き受けてくれたようにも思えます。

戒めとしての「傷」

隼のカウルのストックはあります。

交換すれば、元の姿に戻すことはできます。
けれど、今はそのつもりはありません。

この傷を、しばらくそのままにしておこうと思います。
それは「戒め」でもあり、「絆」の証でもあるからです。

この傷を見るたびに思い出すでしょう。
焦ってはいけないこと。
エンジンも、心も、温めてから走り出すこと。
そして、隼という存在がどれほど自分の人生に寄り添っているのかを。

立ちゴケは失敗ではなく、気づき

バイクに乗るということは、風を感じることでもあり、自分と向き合うことでもあります。立ちゴケは、ただの“転倒”ではなく、“警鐘”でした。

「もっと丁寧に生きろ」
「もっと心を落ち着けて走れ」

隼が、そう語りかけてくれた気がします。
機械でありながら、まるで魂を宿したように。